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エンディングノート(part2)

例えばケアハウス等の施設に入所するとして、其処に持ち込めるのは僅かなものです。

それは、多くの人の現在所有物の1、2割程度かもしれません。
最近、いずれ皆辿る終着駅に向けて、後に残る者の負担とならないように、諸々段取りをつけておくという趣旨でエンディングノートの作成が流行っているようです。
考えれば、日々の生活設計があれば死に際の設計迄を含んで当然といえば当然の事。
これまでなかったとすれば、何となく終わり部分を避けてきたに過ぎない。
しかし、そういう計画も決してマイナス思考のものではなく、子に周りに責任を果たしながら、更に此の世における生を生き切るという観点からすれば大いに勧められることではないでしょうか。「老いるほどに身軽に」・・過去日記より

老いるほどに、できるだけ自分の身辺は身軽にしておこう。

生きている間、廃棄と所有を繰り返しながら、その自らに所有されていくものは、普段気にも留めないなかいつしか随分と増えてきてしまっているものです。
それは精神的にも物質的にも。

各自が辿ってきた人生における精神的部分はともかくとして、「物質的なるもの」は結構厄介でもあるのです。

随分以前のある場面。
住人不在のまま数年経っていた父親名義で相続登記未了の築齢も古い木造家屋を、法廷相続者である子供さんから売却処分依頼を受けたことがあります。
相続者も確か七名程で、皆さん全員がすでに年配の娘さん達でした。

打ち合わせの為に処分依頼を受けたその古家に初めて赴いた私は、代表でその場におられた三名の代表依頼人さんに、「汚いのでそのまま上がってください」と言われました。
確かに汚かった。何年も人の入った形跡も感じず、草木は伸び、玄関先からすでに埃が白く積もっていて、部屋に入るまでもなく状況はその場ですでに想像に難くなかったのですが、しかし実情はその想像以上だったのです。
部屋の和室には、まるで今まさに空き巣侵入後間もない様な光景があったのです。

被相続人である父親の遺影は無造作に畳の上に置かれ、タンスからは衣類が溢れ出し、辺り一面散らかり放題。
被相続人が亡くなった後、全く整理の手ひとつ入れられた風もなく、それはまるでその家全他が厄介者であるかの様に、そしてこの古家を誰もが避けていたとしか思えないものだったのです。
ひょっとしたら、生存時よりあまり出入り、そして身の回りの世話等さへもあまり無かったようにも思える状態でした。

その後、この家は古家付き土地として売買し、やがて購入者によって解体されたのですが、室内の荷物撤去を手配しながら、請け負った業者も大変だったのです。
衣類だけで袋詰めしたものが20個近くにもなり、庭の残存物を含め2t車で何度も運ぶ有様でした。

これがまた、子供さんが遠方におられるのならともかく、皆さん近くに居住されていてこの有様なのですから。

まあ、このケースは特別としても、けれども、亡くなった親御さんの不動産処分を、遠方の身内の方から依頼されることも多々あります。
もちろん、その時にも、つい最近までの生活そのものが残っていますので、同時に子にしてはほとんどが不要物処分の相談があるのです。


今は昔のように、後を継ぐ商売人でもない限り家を継ぐケースは殆どありません。
それぞれに生活スタイルも違いますし、住む場所も遠く離れたいたしもします。
そして、年老いて、子供さんに勧められ住み慣れた町を離れ、慣れない都会へ不安を抱えながら引越しされていく場合もあります。
いずれにしても、残された身内にとっては家財などにおいては殆どが不要物なのです。

思い出のアルバム等もしかり。
思い出を大切に収めた何冊もの分厚いアルバムを、これまで何度開いて見返したことがあるでしょう。
押入れの隅で埃をかぶってはいないでしょうか。
写真なんていつか遺影として使用する、とっておきの一枚を含め数枚あれば十分かもしれません。
家族の思い出写真は、子が欲しいと思う最低限のものだけを渡しておけばよしでしょう。

ある知人は、まだ若い結婚したての一人娘の為に、将来の親の墓守の煩わしさから開放させてあげることを考え、過日クリスチャンになることを選択しました。
墓守放棄・・
その決断は、決して放棄でもなく信仰心に薄いというわけでもなく、素晴らしいその知人の精神だと思われるのです。

神や仏、信仰などというものは、何がどうと、決して形式に縛られるものでもなく、また排他性を持ったものに左右されるものでもありません。
真の信仰心は、崇高なる魂によって尊き昇華を得るのです。

さてその歳を詰める過程において、できるだけ身辺を身軽な状態にしておくこと。
生きた証として残されるものを大きく「財産」としてひとくくりに考えながら、それは時に受け入れる方には負担と揉め事の元。

思い出のアルバムも、現在ではデジカメで撮ったものを簡単にパソコンに取り込んでいつでも簡単に見返すことができますし、嵩張らないCDに大量の情報を収めることもできます。

やがて訪れるその時に、残る家族に迷惑をかけないような身軽な自分にしておく心配りも必要ではないでしょうか。

それよりなにより、物質的なものに比べ、重荷にならないところで永久に残り続ける心の部分がいかに大切で価値を持つものか。

生きるに必要最小限を持って得心する精神の身軽さによって、魂は更に真に価値ある自由を得る事になるのでしょう。