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人生は、さながら舞台のよう

走る車中で、ラジオからの声は言っていた。

「人生はひとつの舞台であり、そこには舞台の一部始終を見守る神がいて、やがてその舞台が終演を迎えた暁には、それぞれに与えられた役回りを演じきった者に対して、舞台の神は、その者が演じた舞台の内容に相応しき、「賞」というものを与えるのだという。

 

なるほど、確かに人生は、さながらひとつの舞台だ。
私もそう思う。

 

人生という旅の一舞台上に登場人物として居合わせた者達は、主役も端役も、階層も男女も、仮に与えられた役どころの表層部分と演者の内なる部分は決して一致するものではないのだ。

 

単なる端役も十分主人公であろうし、例え華麗な一族を演じることを授かったとしても、演じる事と内面とは必ずしも合致しないとすれば、主役であっても実内容如何によって、ただの大根役者で終わることもありえるというもの。

 

今を生きる世の、いつかは終りくる当面の一舞台とすれば、どの様な役どころであっても、やはり精一杯の誠実さや弛まぬ努力で、めくるめく○幕○場を大切にこなさなければならないと思うのだ。

 

例え今日の出来がいまいちだとしても、台詞のひとつのないただの通行人を与えられたとしても、それはそれで、やはりこの舞台上の一員であるには違いない。
要するに誰もが主人公なのだから、今日より明日を、明日よりまた次に向け、やり直しのきく舞台上で、更によりよい自分を目指さなければならないのだと思う。

 

舞台の袖に立ち、目立つ主役の陰に甘んじていようとも、決して手を抜かぬ事が肝心であるし、正面からは端はよく見えなくとも、頭上からはしっかり端から端までお見通しなのである。

 

そして、日々を悔やまず精一杯の自分で演じ抜く延長に、その「賞」とやらが待っているに違いない。

 

一人一度の舞台に立ち、その舞台が仮に1カ月公演だとして、
人生70年とすれば、840カ月分の1に過ぎない。

 

めぐる悠久の生というものをこの分母に捉えるなら、分子の1カ月程は、わずかこの世の人生に過ぎないのだ。

 

なんとも短い人生で、いかに一日を無駄にし、些細な事で右往左往していることだろうか。

 

やがて終演の時。

 

私は、その舞台の神とやらに、賞としての金一封などは要らぬから、せめて微笑みの握手を交わし、縁合った登場人物共々、歓喜のカーテンコールを受けたいと願うのである。