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人生(人生における幸不幸・・)

人生における幸不幸なんて、部分的だけを捉えて決して語れるものではありません。

運が良い悪いは、個人における心の捉え方次第。
断片だけに因らず、全ては総合的に判断されるものです。
 

例えば、私は、高校を卒業して家を出るまでの間、今も健在なる母親が作ってくれた手料理というものは、ただ一度、小学生の時、私の誕生日に友達が我が家を訪れた折に、唯一カレーライスを作ってくれた記憶だけ。

 

その、手を掛け料理をする等の類が苦手だった母の手料理に、思い出はないけれど、代わりに、小さい頃から私の食事や身の回りの世話をし続けてくれた、血は繋がらない祖母の心を、亡くなって二十年以上経つ今も忘れることはありません。
私は、祖母の優しい心に、多少、人としての大切な感情を得たのかもしれません。

 

記憶にあるのは、母の背中ではなく、祖母に背負われた私でした。
苦労ばかりで、私の目には、まるで良いとこなしだったような人生を送った祖母に、私は、私の中にある想いと裏腹に、口数少なく最期まで、感謝を恩返しすることができませんでした。

 

母の手料理に馴染みのない私は、しかし、結婚して三十五年、
旅に出たり、時に外食する以外の365日、家において、朝も晩も、妻の手料理にありつけなかったことがありません。
おまけに、私の実家に帰れば帰ったで妻が料理の世話をするのです。
子も、毎日の手料理が当たり前のことでいることができました。

 

その他、人生いろいろあったとしても、何が幸せで何を不幸に思うのか。
何を充たされ、何を充たされないと感ずるのか。
コインは表も裏もあってコイン。
雨が降った後には、再び晴れ間も広がる。

 

自転車を前に走らせようと思えば、ペダルを踏み込みながら車輪の頂点に負荷が掛かりながら次に軽やかに回転していく。
負荷も次に来る軽やかさも、あるいは、山も谷も連続しつつ、越えてなんぼで、甘いも酸っぱいも経験しながら、人生というものは、個人の生きる姿勢や心の在り方に相応しい形で、按配よく運ばれていくでしょう。

 

負荷の途中でも谷の真っ只中でも、一歩踏み出さなければ何も始まらない。

 

頭脳や知恵だけでもない、又金だけでもない、人生における幸福は、総合的に判断されるもの。

 

平坦や紆余曲折の人生路を、自らの力で前に自転車を漕いで行けば、ペダルにサドルにハンドルに、えも言われぬ感情は伝わり、体験になにひとつ無駄はなく、全てが天の成せる業と知る。