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近しき縁というもの2

肉親とは、夫婦とは、その関係はどのようなものでしょう。

出逢いに偶然はなく、すべては、個人にとって必然的なるもの。
そして、そのなかには、まさに人生における、ターニングポイント的縁というものが存在するのも事実です。
 

誰しも、過ぎた人生を振り返って、そう気づかせる部分を持っているのではないでしょうか。
否、考えれば、気づかないだけで、ターニングポイントは連続性を持って個々人の人生上に存在しているのです。
それに出逢うも気づくも、思い描く想念と自らの一歩の進め方に因るところが大きいのではないでしょうか。

さて、「縁においての、特に近しき縁」と、先日書いたのですが、なかでも最も近しき縁である肉親、夫婦という関係を、つくづく考えてみれば、私は、肉親といえども、世においては、友人、知人等々、他人と変わらぬ、それぞれの個の関わりと、なんら変わりないといえるのではなかろうかと思うのです。

子に恵まれず、○○家もここで絶える・・といったことを言います。
血の繋がりが絶えることもあれば、先祖代々、血縁は脈々と続き、子孫繁栄の路もあるわけです。

近い縁ほど愛憎もまた深いわけですが、最愛なる肉親との別れは、当然に悲しく、時に身を引き裂かれるようであろうとも、しかし、歳月というものは、やがて悲しみを薄らせ、意思とは別のところで、悲しみの記憶を忘却の彼方に追いやるのです。

しかしながら、だからといって、そのこと自体、特段、人としての心を欠いているとはいえず、自然なるものであるわけです。

私など、常日頃亡き祖先をとりたてて大切にする人間でもないのですが、さりとて、生涯を通じて、真の心とは裏腹に、性格がなせるのか、言葉を交わすことも皆無に等しかった父や、子供時分から高校まで、私の身の回りの世話をずっとしてくれた祖母のことを、時々でありながら、ふとしたときに思い出し続けて近しき縁の想いを忘れることもないのです。

此の世に近しき縁の存在をなくしたとき、墓も仏壇も、私のなかでは、意識しないなかで、さほどそれらは意味を持たず、ふとしたときに思い出し、縁あった意味合いに思いを馳せることによっても、一瞬触れ合い通じるものがあるような気がするのです。
物質とは違い、他人も肉親も、一時を縁として交わる。

舞台や映画で、役として抜擢された家族、あるいは夫婦。
その一時を、一際のもので共有することになる縁。

ある意味特別の編成。
互いにサポート役として成り立つわけです。
サポートしサポートされながら、互いに成長を目指すための縁。

しかし、やがて、ひとつの舞台(人生)が終われば、そこで一旦解散。
もちろんある時期を、自ら選択し、選択された共演者(近しき縁)との惜別が、ひとしおの感慨を持つのは当然の事。

終われば、照明をはずし、セットを片付け、解散。
そこに物は無用であり、一舞台を共有した個々人の足跡のみ無形として残るのです。

ひょっとして、次の舞台で、よりいっそうの舞台を目指して、気のあっただれかと再び共演するかもしれません。
同じ夫婦や家族、友人として。

そのようなことを考えるに、例え肉親であろうと夫婦であろうと、繰り返す世の、ある一時を共演した、他人と同じ個人と捉える方がしっくりくる感じがしてくるのです。
血が途絶えるという、小さな捉え方のものでもないと思われるのです。

此のところ、そこを考え、やはりそうであるのが、なんとなく辻褄があうと思えてくるのです。

しかしながら、だからこそ、自らの選択により、今世を共にすることになった近しき縁者の意味合いにおいて、一層愛おしさと感謝の念が募るってくるのではないのでしょうか。

果たして、意味合いを持ってしたパートナーに何がなせたのか。
パートナーによって、自身、どのような気づきを得ることができたのか。
感謝することは何だったのか。
大切にすべきは何なのか。
かけがえのない人生路においての縁というものを考える時に、今日会う人、明日会う人、出遭う事象のどれもが、とても大切に思えてくるのです。
ひとつも無駄のない人生路。

そして、その、死して有形に留まらない無形のしなやかさにこそ、永遠に紡がれる崇高で艶やかなる魂を観るのです。