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1854年

 ・・・1854年4月25日午前2時45分、二人の日本人が小さいボートで乗艦してきて、約45分間滞留した。

乗艦した際、彼らのボートが喪失したため、提督の指示で本艦の小艇岸辺へ送還された。
「二人の日本人」は、吉田松陰と従者の金子重之介を指す。・・・「松陰密航 時間経過が判明」と題して、先日の毎日新聞に、当時のその場を詳述したペリー艦隊日誌が発見されたことが掲載されていました。
更に記述内容を引用すると、
記録が見つかったのはペリー提督が率いる艦隊の旗艦、ポウハタン号航海日誌で、記録責任者はマクルーニー艦長で、事件はペリーが再来航し、日米和親条約の締結後に起きた。
二人はポウハタン号より前にミシシッピ号へ乗艦を試みた。
公式記録「ペリー艦隊日本遠征記」は、それを「午前2時ごろ」と記す。
これは松陰が事件の7カ月後に著した回顧録「三月廿七夜記」の記述と矛盾がない。

(以上、陶徳民・関西大教授が米国立公文書館で発見した資料による4月25日付毎日新聞掲載記述から。)

 

安政元年、密航叶わぬこととなった松陰は、直ちに下田番所に自首し、江戸伝馬町の獄に囚われることとなります。
そこでも、自ら不利となることも省みずに、密航への想いを大いに吐露してしまうのですが、その性質こそまた松陰先生らしきところ。

 

6カ月間を伝馬町獄で送った後萩に移送された先生は、野山獄での獄中生活後、「松陰の松下村塾」を始めるのです。
農民、町民、武士の階層を超えて自由ななかでの教育は、安政三年から安政五年末、野山獄に再投獄されるまでの三年弱の間に九十名程の塾生を輩出したとあります。

 

その後も紆余曲折、時代の波に呑まれながら安政六年五月、再び江戸伝馬町の獄へ幽囚された松陰は、その年十月二十七日に処刑されます。享年三十歳の事。
けれども悲しむことはない。若くして逝くことを惜しまれながらも、吉田松陰が松陰として多くに影響を与えて今に名を残す、正にそれは、予定通りの生き様に他ならないからなのです。