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食べて寝て・・

「何かいいことないかね?」

「毎日食べて寝ての日々・・まるで、わしは家畜と同じだ」
「もう人生に未練はない」
八十歳になる御老人の口癖である。
 

死というものは、八十歳はすでに十分過ぎる人生として、男なら定年を迎え、六十を過ぎて七十に向かう頃から、じわり意識していくものでもあるようだ。

 

そしてどうやら人は、年老いてくるにつれ、死そのものを自然と迎え入れる準備ができてくるようなのだ。

 

何故なら、年老いていく肉体は当然に、若い時のような身も軽くしてはつらつとしたその自由さを失くして、一動作にも倦怠感を持ち、変化のない繰り返す惰性的日常に、一日を生き終えることさえ、しんどさを感じるようになるのだろう。

 

それはすなわち、生への執着と死への恐怖感というものより、一日を送ることの疲労と倦怠感の方が勝ることによって、気力そのものを喪失していく内に、死を受容してしまうのかもしれない。
要するに、人生の疲れとともに訪れる、日々を生きる面倒臭さというもの。

 

遭難の雪山で、眠ることが死への道としりながらも、肉体は意識を放棄して、軽やかになる開放のなかにどうしようもなく吸い込まれていくような。
それは十分理解できる気もする。
そのように、吸い込まれる様な大往生が理想かもしれない。

 

しかし、これらは、「重い病気やまだ若くして・・」とは違い、その人にとっては、まだ贅沢の感がある。
長い人生を生きてきて、もはや日々の生をいくら面倒くさく思えたとしても、自ら命を絶たない限りにおいて、人の生は、まぎれもなく与えられた生なのであるから、生き続けなければならないことになる。

 

「重い病気やまだ若くして・・」
世には、生への無念が数多く存在することを考えれば、例え思うようにならぬ老いた肉体に早々と人生を切り上げたいと思おうとも、家畜同様の「食べて寝て」に形容される一日を、それはそれで、最善のより良い生き方と自らの人生路としなければならないと思うわけだ。

 

今生においてそれぞれに与えられた人生。
その人生を生き切る。
そして生き切るということは、間違いなく次の生へのスタートに立つということ。
個々人の人生事情のなかで、次の立ち位置の為にも、ふと改めて考えてみたい、かけがえのない自分の生きる「時」というもの。