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過日、若者と話す機会があった時、その若い人に尋ねてみたのです。
「貴方がこれまで生きてきたなかで記憶する一番感動したことは何ですか?」
「最も感動し、印象に残っているのはなんだろう」
その若者の口から返ってきた言葉をこうでした。
「そうですね、アップルからiPadが登場した時ですかね」
その言葉に拍子抜けした私は、彼に尋ね返した。
「その他には?」
「・・」
間が開きながら、彼はいささか考えあぐねている風で次の言葉が出てこなかった。

そうか、平成生まれで二十歳前の彼の場合、生まれた時には既に社会は利便性に富んでいたのだ。
物心ついた時にはパソコンや携帯電話があり、やがて極自然にネット社会に身を置いて生きているのだ。

何不自由ない社会に生きながら、感動や喜びに出遇うことなく気づく情操部分も育たず生まれ生きる人を可哀想にも思う。

数多く誕生して水泡のように流れていく音楽やゲームの娯楽。
何もかもが雑居的に氾濫する中では、例えば、昭和歌謡やビートルズの様に、継がれていくようなものは成り立たないようにも見える。
ネオン煌めく歓楽街の翌朝、大量に積み出される残飯は何を物語るのだろう。

私が子供時代に生きた三十年代。
何十年も前から、私は、今生きている此の時代が、これまでの歴史の中でも格別なもので、最も充たされた頂点に位置するのではないかと思っていた。
戦争を経験せず存在する平和の中で、やっと出てきた白黒テレビや炊飯器。
調理の道具としてひと家庭に電子レンジが当然にある現代の利便性に比べれば、不足だらけだ。
ビー玉、かくれんぼ、Sケン、相撲・・
田んぼや畑を球場としながら日暮れまで遊び、向こうの家並みの煙突から立ち昇る炊煙を見ながら家に帰っていった時代。

SONYのラジオもナショナルのポータブルレコードプレーヤーも、少しずつの家電の進歩に感動があった。
決して懐古的に感傷的に浸るということではなく、私も含め、多くの人が、本来その辺に転がっているはずの真の幸福をいうものを、いつのまにやら見失い棄てているのだろう。

人の心が主体の「生きる」を、進化はとっくに追い抜いてるのに、人々はそれに気づかず、実のところは、その進化に引きづられ喘ぎながら生きているのだ。
私が生きた時代、物質的に不足するなかで、心はしっかり手元にあって生きるに主体性があった。
充たされた世に生きながら、無限大の感動を知らない人達を可哀想にも思う。

喧騒を離れ、一呼吸でもして、頭を少し上げて見よう。
青空に浮かぶ白い雲は何事もないように悠々と浮かび、今日を流れている。