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人間とは(その3)

 善も悪も、心に内包しているのが人間だ。

その人間が、生き物の頂点としての善を謳えば、それは驕りを孕むことになり、性悪説に立てば、それは解決の限界を見ることになるだろう。 およそ、生き物にも心は存在する。

産み落とした子には、餌を運び、育てながら、そこには本能的な親子と家族の間における愛情というものが存在する。

それら下等動物とは違い、広く知能と思考を持つ人間が、生き物以上に愛情が深いかといえば、そうとも限らない。
より高度な知能と思考を持つがゆえに、その感情は、人間に、一層深い愛とともに、悲しみや悩みをもたらすのだ。

しかし、それこそが、人間が此の世に生きる上に課せられた、崇高で深遠なる修行の場であるのだろう。

それにしても厄介なのは、この人間の思考というものだ。
知恵も思考も、心が牽引している内はよいけれど、追い追い人間としての過信と、足るを知らない過ぎた欲望が暴走を始めることになる。

動物達に、独りよがりの育児放棄やいじめ等ほとんど存在しないだろう。
植物を含めた地上の生物は、最低限の我を生き、シンプルな共生は、必要以上に他への侵害をすることはない。

人間社会において甚だ大変なのは、動物とは違う、知能と思考の多様性が及ぼす人間ならではの感情の部分だろう。

人それぞれに考えが違い、価値観が違う。
欲望の在り方も異なり、やがて社会とい枠の中で、力関係や軋轢を生み、生きる上で思い悩んだりもすることになるのだ。

どの様な状況下においても、心豊かに善なる良心に従って生きる人もいれば、いつしか悪側に入ったり、はたまたグレーの波間を漂うを心地良いと考える人間もいる。

知能は、前に進化発展し続けることによって人間としての生を満足させる。
ある意味、それは当然であり、人間であり続ける限り良しとされるものではあるが、如何に進化した物や機械があろうと、それを司るのはあくまで心なのだ。

その心において、進化発展してきた物と裏腹に、心はどこまで進化したのだろうか。
いかに動物より発達した知能を持つとして、心は掴める程の脳の中を限りなくスパイラルしているように思えるのだ。

此の世における人間社会が複雑なのは、例えば善と悪、若しくは対極するものを大雑把にスパッと分けたとして、分けられたその断面を見れば、またいくつもの断層に分けられているのだ。
この重なる層こそが、人間の多様性に他ならない。
この階層を上下しながら、波長に引き合い、対極に反応しながら、葛藤と成長を促されているのが人間。

改めて此の世における生物に目を向けてみよう。
草木や花は、律儀に誠実に我の生を生き、生き物は子へ家族に、本能的な愛情をやりながら、精一杯の一日を生きている。
全ては足るを知った中に共生しているのだ。

それらを考えれば、欲望、憎しみ、愛情、慈しみ・・
人間は実に壮大なる修行の場を与えられたものだ。

例えば、様々な研修会。
テーマは同じその研修の場に、入れ替わり立ち替わりで研修生が入ってくるのと同じ様なものだろう。

永遠に終わらないような葛藤の中のジレンマは、削ぎ落とすことによってこそ、真実を手に入れることができるだろう。・・・