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人間とは(その2)

 今日、広がる青空に浮かぶ白い雲を眺め山野に立つ私の頬を、草木をそよがせ風が撫でていったとして、遠く離れた同じ地球上でありながら、戦地に住む人等が、心のゆとりをもって同じ感情に浸ることができるでしょうか。

紛争や貧困の中に生きる人々は、寝ても覚めても、終わらぬ不安に翻弄され続けています。
生まれた端から希望のないその世界があることを、平和な世界に生きる我々の感情が、どこまで想像を及ばすことができるのでしょう。 人々は、有り余るものに、手に入れる感動を忘れ、足るを知らない心は際限のない自己利へと向かい、勘違いの個人主義は、平等を謳いながら排他性を持った無関心へと流れて行っているかのようです。

希望を持てない社会だからと言って、何を誰に求めようとしているのか。

どんなに不満足としても、夜が明け陽が沈むまで、戦々恐々として生死を左右する一日を送ることもありません。
しかし、貧困や紛争地に生きなければならない人達は、その日一日、生き延びることに神経を費やしているのです。
生死の狭間は、悩むことさえ与えてくれません。
束の間の安堵をもたらすのは、青空でもなく、頬を撫でてそよぐ風でもなく、暗い闇における一時かもしれないのです。

彼等は、希望と絶望を境として、今日一日を絶望の淵に精一杯しがみつき生きています。
対して我々は、その境目より堕ちることのない場所に脚を下ろしながら、希望の一歩を自ら踏み出すことなく絶望だとのたもうている。

例えば、いじめる者も、あらゆる場面において他人事の無責任者も、その想像力に欠ける心を、世界中にある、緊張の場に一度晒してみたらよい。
目先の受験勉強の手を休め、鳥瞰的に思考を巡らせてみればいい。
はたまた、修学旅行にシリアでもどうだろう。

自分なりの不変なる価値観を持って生きている私は、自由と平和の有難さを心より感じながら、今日一日を生きています。
しかし、ほぼ毎日のように、意識せずとも世界のあらゆる場面が想像にチラチラと頭の中をよぎっていきます。
私は、只の偽善者かもしれません。
小心者の私は、戦争、殺戮、虐殺、貧困・・優に想像が及びその恐怖感情を抱くことができます。
けれども、いかなる頭脳明晰、長けた才より、其処に想像が及ぶ小心者で良かったと思っています。

その感情があれば、拳の加減も飛び降りる怖さも、容易に解ろうというもの。
いくら勉強ができようと、心が育たなくてどうして世の役に立つ人間となれるでしょう。

恵まれ過ぎ、甘えの構造が蔓延する日本 という国・・