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地球は優しく光る淡い水色だった

物事に行き詰ったり、思い悩んだりしたときには、例えば、息せき切って上る階段で、踊り場にふと足を止めるごとく、あるいは、公園のベンチに腰を落とし、木陰にそよぐ風を感じてみるように、一旦気持ちの歩を休めるもいいだろう。

人類初の宇宙飛行を成し遂げた旧ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、
宇宙から観たその地球の様子を
「地球は優しく光る淡い水色だった」と言った。

気づかぬ内に、がんじがらめに絡められた、個々人の立ち位置から観る、限りなく平面的な日常というもの。

駅のプラットホームから改札口を抜け駅舎を出る。
赤から青に変る交差点を、ほとんど意識しないなかで流れていく都会の通勤の波の様な日常というもの。

その現実の喧騒は、遠く宇宙の彼方から観ると、地球の限りない美しさのなかに隠れて、その日々の複雑さを微塵も窺わせない。

そもそも、全ての存在元は尊く美しきもの。
それこそが、存在する全てにおける揺ぎ無い事実ではないのか。
水がその状況において流れを、形を、不変に変えていくように、
果てなく広がって存在する大宇宙。
囚われない大宇宙ということを考えれば、数々を納得できる。

宇宙の果てに浮かぶ星群に魂を重ね、眼下を見やれば、時において見失いがちなものも取り戻せる。

宇宙の彼方・・
しかし、果てしないその彼方に、それでも人間はどこかに行き着くところを求めたがる。

限りという固定観念で捉えがちなのが人間というもの。
だからこそ際限なき欲望に囚われ翻弄される。

しかし、日常の喧騒が、高みの宇宙空間から眺める美しき光景の下に隠れ、その喧騒自体が、いかに些細なことであるか理解できれば、もはや、平面的な枠や限度という、日常の固定観念に心が囚わることもなくなるのだろう。

いまだ未熟さを持ち、時折あちこちぶつかりながら、
今の私は、時に音楽を聴きながら、旅をしながらの、いつもの我の取り戻しはもちろんのこと、心を一気に天空に飛ばせることで、先に記したように、地球の美しき青さに喧騒を忘れ、自らを拠り所としてまた今を生きている。
その術に、多少なりとも理解を更に深めてきたと感じている。